先日、Twitterで「身体男性」というワードがトレンドにあがっていました。
発端はトランス女性(身体は男性だが心は女性の方を指す言葉、トランスジェンダー)がトイレや更衣室、温泉などで女性用のスペースを利用することについて議論されているようでした。
■
海外の一部地域やお店では、身体ではなく心の性別によってスパや更衣室を使用していいことになっており、それに意義を唱えると差別者のレッテルを貼られます。
(女性用スペースに男性がいると訴えた女性が施設の利用禁止を命じられることも…)
ほとんどの女性は、たとえ自分に危害が加えられなくても、トイレや更衣室、お風呂などの空間に身体男性がいたら恐怖を感じるのではないでしょうか。
海外ではすでに女性用スペースに入った身体男性による犯罪が起こっています。
日本でも度々話題にあがるこの問題。
私はこの問題が「いきすぎた多様性」などということではなく、ずっと昔からあるただの女性差別であると感じています。
自分がさらに生きやすくなるように世界を変えられ、議論されることもなく、多様性という言葉ですべて受け入れられる属性。
かたや大げさなどではなく、命の危険を訴え、自分たちのスペースを守ろうとするだけで差別者と言われる属性。
身体男性がより自分らしく生きるための権利を獲得しようとするとき、身体女性は自分たちの命がこれ以上危険にさらされないよう訴えているのです。
この対比が、私にとって今までもよく見てきた“女性差別”という構造そのものだと感じるのです。
好きな服を着て、好きなメイクをして…そんな自由をとがめるつもりはもちろんありません。
ただ、今まで性別で分けられてきたスペースが存在してきた理由を考えてみてほしいのです。
この問題に限らず、「多様性」という言葉で思考停止することなく、だれかを踏んでしまっていないか気にしてみてほしいのです。
1994年、新潟県生まれ。フェミニスト。働く女性の力になりたい。
大学では韓国語を専攻していました。IT営業、コンサルの経験有り。
趣味はツイッター、好きな食べ物はおにぎりです。猫好き。
気になった出来事を自分の考えとあわせて発信します。(女性差別に関する記事多め)